子どもに「信じること」を体験させよう|オトナの「本気」が必要なのだ!

僕の冬の楽しみはフィギュアスケートを見ることです。

先週は一年のシーズン総決算、世界選手権がありました。
5年ぶりの日本での開催、チケットを取ろうとトライしましたが失敗しました(^^;

そこで・・、演技に入る時につい目に止まる、選手とコーチの「関係性」に見る『いいな』について書いてみます。

 

その「信頼関係」はどのように作られる!?

演技もさることながら、僕が一番『いいなあ』と思うシーンは、演技が始まる直前にコーチと選手が向き合い言葉を交わす一瞬。

コーチと手を取り合い見つめあう選手、緊張しながらもうなづき笑う選手。
今まで、あの冷たく硬い氷の上で、何度倒れながらこの時を迎えているのかを想像すると、胸が熱くなります。

厳しい練習を乗り越えてきた人たちが作り上げる、信頼関係を垣間見る一瞬はとても美しいと感じます。

 

スポーツだけではなく、「師」と呼べる人との出会いは人を大きく成長させます

技術的なものだけではなく気持ちの面でも支えてくれる人、自分に足りない部分を認識する謙虚さや「もっと良くなりたい」という向上心に応えてくれる人がいることはとても貴重です。

子どもの頃から「悔しさ」を感じた後に、教えてもらったらうまくいったという「成功体験」をたくさん積んでいると、人からの指導や助言を素直に受け入れられる子どもになるのではないでしょうか。

 

また、親自身が「学ぼう」とする姿勢も、子どもの成長に好影響を与える姿勢です。

「人を信じること」を子どもに教えましょう。

「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」ということわざもあります。

 

徹底的に追い込まれている「世界一」を見て

 

先日、ロシアのザギトワ選手の練習風景を取材したTV番組がありました。

そこで見たものは、「徹底的に追い込まれる」ザギトワ選手の姿でした。

周りの選手も滑っている同じリンクで、気を抜くことは許されず、何度でも何度でも同じ技を繰り返しては倒れ、

気を抜いた様子を見せると、一緒にリンクを滑っているコーチから、徹底的に罵倒されている。

精神的にも徹底的に追い込もうとしているようです。

『だからお前はダメなんだ!』

『何回言ったらわかるんだ!』

『できないのなら辞めなさい!』

滑っている彼女の後を、自身もスケートで追いかけながらです。

競技本番での優雅な姿や、ペットの”マサル”くんを抱きしめている笑顔からは想像できない姿に戦慄さえ覚えました。

 

それほどまでに自分を追い込まなければならないんだ、と自分の甘さを思い知った気がします。

また、甘えを許さない厳しい指導も必要なことも。

 

しかし、私たちは追い込んでくれる貴重な存在をともすれば遠ざけてしまい、自分を高める機会を逃しているとも感じるのです。

苦しさ辛さに耐えかねて自分を甘やかしてしまう人と、目標を達成するまで追い込める人の差は大きいはずです。

 

残念ながら、学校でのスポーツ指導など、「熱意のあまり手が出てしまう」指導者が後を絶ちませんが、暴力は受け入れられないとしても、その激情はわかる気がします。

「世界一になるには世界一の努力がいる」としても、それを自分だけで行うのはあまりにも孤独であり、

いくら時間があっても、才能があってもそれを開花させる大人の存在が必要です。

 

「この子はこれが好きだ」「ここが優れている」「けれどこれが足りない」・・と、感じたら?

スポーツ界での「選手とコーチ」の関係だけではないと思います。

 

教える側の大人が萎縮してはならない!

 

「守破離」という言葉があります。

茶道や武道などの芸道・芸術における師弟関係のあり方の一つであり、それらの修業における過程を示したものという意味です(webloより)。

 

家庭、学校、そして会社などの「人が人を指導する」場所では、「教える・教えられる」の「上下関係」で秩序が保たれます

教える側も、教えられる側も、それなりの態度と心構えで接する必要が本来はあるはずなのですが、

最近色々な場面で、教える側を萎縮させる雰囲気を感じます。

学校では教師が、家庭では親が自信を失っていると思うのです。

教えを乞う側は、また、教えている側も完璧ではないことを受け入れなければならないとも思います。

教えるために一生懸命勉強してやっと、相手にそれを伝えられるわけです。

 

少しくらい教え方や伝え方に疑問があったとしても、それを「あの先生も一生懸命なのだから」と受け入れる心の余裕もほしいと思います。

 

僕の知っている範囲では、自信満々で指導している人はあまりお見かけしません

指導者として尊敬できる方ほど「謙虚」であることは間違いないと思います。

 

「もっと改善できないだろうか?」

「間違っていないだろうか?」

「受け入れてもらえるだろうか?」

不安と戦い、周囲の声に耳を傾けながら、必死で自分の役割と戦っているものです。

 

僕自身も23歳から学校で教えてきましたが、教える技術も経験もない若い頃は「ハッタリ」「虚勢」・・なんでも使いました。

そして、使用する教材について「どう教えればいいのか?」を必死で研究し、「またダメだった・・」を繰り返しました。

やがて、「またダメだった」の積み重ねが、成績や授業のわかりすさという「結果」につながり、生徒からの信頼を得るまでに育ったのだと思います。

しかし、「またダメだった」は終わりになることはありませんでした。今も同じです。

(学校の場合、教える内容も生徒も時代も毎年異なります。それらを臨機応変にこなしているうちに、「柔軟さ」も鍛えられました。)

 

「信じられる」ことも「能力」の一つです

 

決して完璧ではない「自分」を信じ、ついてきてくれる相手に必死になって応えようとした経験はありませんか?

子育ても最たるものの一つですね。

指導を受ける側にも、指導する側にも、「心と心のつながり」「覚悟」が生まれます。

では、「信じる」ことを初めに教えるのは誰かというと・・、それはやはりの役割。

「人を信じる経験」を与えてもらえなかった子どもは、ずっと他人を信じることが下手なまま大人になります。

「信じられる心」を子どもにプレゼントできるのは親だけです。学校の教師ではありません。

 

「追い込んでもへこたれない子ども」

「人を信じることができる子ども」

 

これらを作るのは親子の信頼関係があってこそであり、

「親が子どもを信じていること」が条件だと思っています。

  
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